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院長の生い立ち

誕生~小学校時代

私は、大阪市東淀川区で昭和53年6月24日に生まれました。父は小児科医として、新生児を専門にし、日夜働き、その仕事を保健師の免許をもつ母が支えるという環境で育ちました。週に2、3回の当直と共に、日夜、仕事に励む父とは、平日ほとんど会うということはありませんでした。 ただ、その忙しい中、休みがとれると公園や遊園地に遊びに連れていってくれました。

小さい頃は、どちらかと言えばおとなしく、運動も得意ではなく、活発に動く友達に憧れ、それをかげでうらやましく思っていた子供でした。父が忙しい分、母と接する時間が多く、田舎の祖父、祖母がいつも、遊びにきてくれていて、たくさんの愛情を注いでいただきました。

 

 小学校に入り、自分も初めて歯医者さんを体験しました。左右の下の6歳臼歯が虫歯になり、母の通う医院で、初めて治療したのが6歳だったと思います。

小さい頃の記憶ですが、麻酔が痛く、泣いたことと、動くと怒られ、『動くと歯がなくなるで』と言われて、本当になくなったらどうしようと心配しながら、頑張ってなくならないように、お口をあけていたのを思いだします。(誤解を招くといけないので、その先生は名医さんで、30年たった今もその治療していただいた所の虫歯の再発はありません)

自分が初めて歯医者さんという職業があることを記憶したのがこの治療の経験です。あと、歯医者さんのエピソードとして、父方の祖母が歯科医師だったこということで、父が継がなかったのもあり、自分が生まれると直ぐに、祖母は歯医者になってほしいと言っていたそうで、小学生になっても『あんたは歯医者になりなさい』と言っていたのをかすかな記憶が今でも残っています。今、思えばそれが自分の人生を決めていただいたようにも思います。

小学生になっても、体が弱く、小児喘息を患い、なかなか体が強くならず、両親も心配していた一面がありました。小学校の中で、自分の中で、転帰があります。それは、体も弱く、運動音痴だった自分でしたが、チャレンジしたのが、少年野球でした。

大阪出身でもあり、大の阪神ファンで、当時野球年鑑という本があり、選手の背番号、名前だけでなく、当時、愛車など、すべて覚えていたり、甲子園で選手の写真をとるのは、もちろんテレビの方が、大きな選手の顔がとれると、テレビ中継のテレビに向かって選手の写真を撮ったりしていました。

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テレビを見ながら、自分も野球をしてみたいと、すごく強く願うようになり、体の弱いのを心配していましたが、熱意に負けて、地元の少年野球チームに入れていただくことになりました。小学校5年生から、地元チームに入れてもらい、週末は、学校が終われば、そのまま練習に直行し、日曜日も練習か、試合の毎日がはじまりました。

今まで、運動も小学校以外の体育以外では、本格的には初めてで、当初は、ついていくのもやっとで、練習が終われば寝る毎日でした。

試合では、なかなかヒットがでない状態でしたが、一年たったころには、成長期も重なり、身長も伸び、練習の成果か、明らかに足が速くなったり、肩が強くなり、以前より、ボールをあてることができるようになりました。野球部では、レギュラーで、活躍するまでは、至りませんでしたが、ここでチームワークの大切さ、スポーツの楽しさ、目標を持って取り組むこと、みんなでひとつの目標に向かうことの大切さを本当に学びました。

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この経験もあり、小児喘息も野球に取り組むとともに強くなり、心も体も、本当に鍛えていただいたと思い、この体験が自分のやりたいことに挑戦した大きなきっかけになっています。

~中学時代

中学校は、地元の大阪の学校には進学せず、両親の出身でもある、和歌山県の新宮市の近畿大学附属新宮中学校に進学しました。

理由は二つあり、まず自分は、かなりのおじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子で、小さいころから、夏休みや、お正月になると田舎である新宮に帰るのが本当に楽しみでした。少し歩けば太平洋が眺めることができ、見上げればたくさんの山々に囲まれ、自然が多く残っており、大阪のように人も多くなく、都会にはない、のんびりとした、時間が過ぎていく、生まれつきのんびりとした性格もあり、幼心に、少し都会の空気より、田舎の空気があっていたことを自覚じ、新宮にいくことを決意しました。

もちろん両親は、驚き、まさかこの年齢で、親元を離れるとは、夢にも思ってないようでした。祖父と理解ある叔母の協力を得て、新宮に12歳の時に行くことになりました。

中学校でも野球部で、目指すは甲子園そう思っていた中、重大なことが判明しました。それは、野球部がなかったことです。自分の目標がまず方向転換となり、入部したのがソフトテニス部でした。理由は、テニスのイメージがさわやかで、なにか楽しそうな感じがしたというものでした。入学した中学校は、自分たちが一期生ということもあり、先輩がいないので、キャプテンも一年生がなります。入部がきまりキャプテンをきめる会議で、大阪から来た珍しい人ということもあり、なぜか推薦で自分がキャプテンになりました。

キャプテンになり、まず取り組んだ仕事は、みんなでテニスコートを作ることでした。高等部の運動場の端の方に、スペースを区切ってもらいみんなで、草抜きをして、ボコボコの地面を、二人がかりで、ローラーをひいて平らにして、その後ネットを張ると、テニスコートも自分たちで手作り、2週間ぐらいかけて、本格的な練習ができるようになり、テニス部として、練習がはじまりました。

通常だと、先輩がいて、練習メニューや、教えてもらう環境だと思うのですが、先輩もいないので、初めてのテニスを覚えるのはもちろん、練習メニューや、キャプテンとして、まとめるというとても貴重な体験をさせていただきました。当初は、一年生だけのチームで、太刀打ちできない状況でしたが、コーチの、ご尽力もあり、2年生の新人戦では、地区大会をクリアして、県大会に出場することができ、自分にとっても貴重な経験となりました。

その中で、部長をしていただいた先生、スポーツ店からきていただいていたコーチには、この3年間で、親以上に叱っていただき、自分自身スポーツ精神や、キャプテンとしてまとめる難しさを3年間経験しました。

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そんなテニス漬けの毎日で、悲しいことが二つありました。

一つは新宮に誘っていただいた祖父の死です。人の死を身近で起きたのは、この時が初めてで、自分自身このときぐらいつらいことはないというぐらい、悲しく、大泣きしたのを覚えています。ただ、その時、初めて医療にたずさわりたいと思ったきっかけでもありました。

二つ目は、祖父の死の約一年後、祖母が脳梗塞で倒れて、右半身麻痺になってしまったことです。とても、元気な祖母がある日、突然倒れ、動けなくなる、この経験も自分にとっては、とても大きな記憶にあります。その中で、自分が歯科にたずさわりたいというエピソードがありました。

義歯を使用していたのですが、合わなくなり、食事をとりずらく、苦労しているのを目にして、美味しく食べることが、たとえ体が不自由になっても、治してあげたい。世の中の、体の不自由な方の歯を治してあげたいと思い、歯科医師に漠然となりたいとおもったきっかけでした。

ただ当時は、父の仕事を見ていて、医療という憧れはあったものの、周りの方からの将来は同じお医者さんになりなさいという周りからのプレッシャーや、人生のレールをひかれているようにも感じ、歯医者になりたいと言葉で発することは祖母の病気がおこるまではありませんでした。

そんな中、祖母の姿を見て、当時は訪問診療というものもなく、歯医者にいけないことがどんなに、つらいことか、身近に感じ、食事をしたり、話をするのに支障があるのが、歯医者の仕事の大切さを感じるきっかけになりました。

~高校時代

高校生になり、引き続きテニスをするのですが、持病の膝の脱臼癖が悪化し、1年生の夏で引退となりました。その後、クラスの人に誘われ、ソフトボール同窓会に参加させていただき、無理しない程度に運動を楽しむ生活に変化していきました。1年で引退したものの、3年の卒業アルバムに部活紹介で、一緒に写ろうと誘ってくれた友人の優しさを今もわすれることができません。

また、学年が進むにつれ進路をより、明確にしていく中で、中学校時代に決意した歯科医師になるという夢を実現したいと高校1年生の夏には、決断し、両親に告げると、心から喜んでくれ、応援の言葉をいただき、進路での迷いがなくなりました。歯学部受験にむけて、友人と一緒に自分なりに、勉強をするようになりました。縁があり、九州の福岡歯科大学に合格し、6年親元を離れた代わりに親以上に面倒をみていただいた叔母と別れをつげ、本州を離れ、福岡に行くことになりました。

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~大学時代

大学に入学し、今までしていたテニスを『もう一度したい』という気持ちも強く、迷ったのですが、出来るだけ膝に負担がかからないスポーツとして、弓道とゴルフで悩んだ結果ゴルフ部に入部し、授業、週2回の練習、アルバイトという生活がはじまりました。

ゴルフ部では、練習による技術だけでは、なくメンタル的な、部分もとても重要なスポーツで、緊張すればするほど体が硬くなり、思ったようにいかない。とても難しいスポーツだなというのが感想でした。しかし、多くの先輩や後輩と出会い、練習後や合宿、大会後の後、九州で覚えた焼酎を飲みながら6年間で多くの思い出ができました。特に4年生の時にキャプテンをさせていただき、約30人のチームをまとめる難しさとやりがい、そして経験が、今もすごく役に立っています。6年生の最後の大会で、試合が終わったあと、みんなに胴上げしてもらったことが、自分の大切な思い出です。

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また、アルバイトでは、1年生からメガネ屋さんで勤務させていただいて、接客と販売を経験させていただきました。お客様が来られて、どのように対応するか、挨拶、話す言葉など、多くの事を学ばせていただき、今も患者様とお話しする際に役立ったいます。

学年が上がり、忙しくなるにつれて、家庭教師をさせていただくようになり、問題点を見極め、『わかる所』から『できる所』に持っていくには、どうすればいいいのか、お子様によって、教え方や、対応を変えながら、教えることの難しさを感じたのと同時に、歯科医師にならなかったら、学校の先生になりたかったのもあり、とてもいい経験となりました。

勉強面では、講義、実習と毎日ハードな日程でしたが、歯科医師になりたいという気持ちが強くあり、入学させていただいたのもあり、本当に楽しく、勉強できたのが、本音です。学年が進むに連れて、歯科医師になれる喜びと将来どんな歯科医師になりたいか友人と飲み、語らい、将来を想像する時間はかけがえのない時間となりました。共に学び、遊び、九州のいろんな所を旅行にいくことができ、6年間あっというまでしたが、とても充実した日を送ることができました。

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~研修医大学勤務医時代

大学卒業後、母校の障害者歯科研究室に残りました。治療技術だけではなく、全身も診れる歯科医師になりたいというものでした。障害者歯科では、精神発達遅滞、脳性麻痺、DOWN症候群、自閉症などの先天性疾患の方々や、脳梗塞後遺症、狭心症や心筋梗塞などの心疾患などの、後天性疾患の方々を体のリスク管理をしながら、治療を行う所です。

ここで、同期の友人3人で残り、切磋琢磨しながら、診療や学会の発表などに励みました。この講座で教えていただいたことははかりしれないことです。上司の先生や、関連病院の先生から何もできない自分に丁寧にそして、温かく教えていただき、緊張しーで、焦ってばかりの自分を本当に、育てていただきました。今思い出しても感謝の気持ちがあふれてきます。

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~医療法人育歩会 坂井歯科へ就職

坂井歯科との出会いは、本当に偶然なんですが、大学を退職後、ハローワークで勤務する医院を探していた所、坂井歯科を発見し、ホームページを拝見し、母校が同じで、プロフィールやコラムを読ませていただき、一度会ってみたいと思い、メールさせていただいたのがきっかけでした。

見学で初めて会った院長の印象は、紳士的で、元気な方だなという感じでした。自分が記憶にあるのは、スタッフの元気の良さ、そして明るい医院作りを見て、ここで働きたいと思い就職させていただきました。 就職後は医院のシステムに慣れるのに少し時間がかかりましたが、医院の目標に向けていかに実行していくか、日々試行錯誤しながら話し合いながら過ごす時間もたくさんの学びがありました

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また、予防ベースの医院作りが自分自身とても興味深く感じました。『健康な人が健康を持続するために医院に通う』慢性疾患である虫歯や歯周病を予防していくには、メンテナンスの必要性を自分自身、一番力をいれて伝えています。 

自分の至らない部分を温かく、見守っていただきながら、副院長という役職を2008年には与えていただき、医院のスタッフが一つの方向にむかっていくお手伝いをマネジメントという言葉と共に学ばせていただきました。当時30人近いスタッフの方々と、毎日の診療を通して、楽しいことも、うれしいことも人数が多い分、さらに強く感じました。

一人の力も、みんな集まることでさらにつよい力になること、チームワークの大切さを日々感じると同時に、みんなと働ける楽しさを感じる毎日でした。

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~分院長時代

その後2009年に今のしぎの歯科の分院長のお話をいただき、副院長として、多くの学びもあり、特に不満もなかったのですが、新たな挑戦をすることで、自分自身にとって大切な機会として、感じ、行かせていただくことになりました。

スタッフもほぼ、入れ替わった状態で、患者様もかなり不安なご様子で、来られたのも今でも思い出します。今まで、本院で学んだことを120%の気持ちでやろうと決めていた自分は、毎日患者さんがどうすれば喜んでくださり、安心して通っていただけるかを考えて、診療に当たってきましたが、若かった事もあり、空周りもたくさんしましたし、スタッフの方を頼ってはいけない、自分で引っ張っていかなくてはいけないという使命感が逆に、上手く行かないときもありました。

でも、そんな自分を理解しながら、スタッフ一人一人の頑張りもあり、少しづつ形になってきたことが、今の医院作りに繋がっています。

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~そして承継開業へ

分院長をさせていただき約4年が過ぎたときに、医院の承継のお話をいただきました。自分ができることは何か?スタッフの人生を変える事にはならないか?いろいろ悩んだことも事実ですが、自分自身がこの鴫野の地で治療に当たらせていただき、その方の治療の予後に関して、責任を持って、これからも診させていただくことが一番の責務ですし、自分自身それを希望していることを自覚しており、大きな責任と自覚を持って2014年4月1日に承継開業させていただきました。

自分の夢として、お口の健康を維持するお手伝いをしながら20年、30年共に年をとりながら、その方の人生に携わっていきたいということがあります。それをこれからも実践していく所存です。

自分のモットーは『来院者の笑顔と安心感そして我々スタッフの笑顔とやりがいにあふれる空間』を日々目指して多くの方々にお口の健康のお手伝いを通して、人々に笑顔と心の豊かさを与えれる人でいつづけたいと思っています。 自分の夢である来院者の方々にとっても医院のスタッフも、感謝と笑顔にあふれる医院を作るためにどうしたらいいか、日々、研鑽し、努力し続けてまいります。これからも、よろしくお願いします。

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